トリーニ ヤコポ 自己紹介します!
はじめまして、スタジオ ドディチ代表のトリーニ ヤコポと申します。
弊社ホームページをご覧いただきまして、ありがとうございます。
私は、イタリアのトリノで生まれ育ち、17年前から神戸に住んでいます。
日本の方は、「どうして日本に来たの?」とか、「どうして神戸を選んだの?」とよく聞かれます。
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ですから、今日は自己紹介を兼ねて、私が今の場所で、今の仕事を始めることになった経緯をお話しさせていただこうと思います。
私の両親は、イタリアのトリノでは設計事務所を経営しています。2人とも建築家です。
反抗期の頃に「絶対に親と同じ仕事には就かない!」そう決めました。
物を考えたり、物を作るのが好きでしたので、「発明家」になりたいという夢があったのです。
大学を選ぶ時期になり、エンジニアリングに申込みをしました。
専門を選ぶ欄で「電子」とか、「機械」ではなく、「土木、構造」を選ぼうとしている自分に気づいたとき、結局のところ、建築が好きなんだと認めるしかありませんでした。
慌てて申込みを下げて、トリノ工科大学の建築部に入学しました。
5年間の間にイギリスとデンマークに留学し、ヒマラヤの一人旅を体験し、そして29回の試験を一つづつクリアしました。
論文の準備をしながら、講師のアシスタントを1年間努めました。目の回るような忙しい大学生活でした。
無事に大学を卒業した時、両親の設計事務所で働くことは全く考えませんでした。なぜなら、自分の道を探す機会が少なく、見つかることはないだろうと判断したからです。実務経験を身につけるために卒業の3日後 、アメリカに飛びました。
ニューヨークでは、すぐにある設計事務所が受け入れてくれました。主にスポーツクラブの設計(90%がリニューアル、10%が新築)やマンハッタン内の小型の収益物件のプロジェクトを多数手掛けました。
2年で事務所は5人から28人までに成長しました。私はプロジェクトマネージャーとしてバライェティー豊な仕事を任せてもらいました。
最初は、いろんな面できつかったです。インチやフィートが分からない。ニューヨーカーの英語が聞き取れないし、ゆっくりしゃべたら電話を切られる。会社の同僚は、競争心だけが激しくて、誰も助けてくれない。
そして、言葉にも仕事にも慣れたころ、勉強できることや発見の喜びが減っていることに気づきました。実家が設計事務所なのに、よその会社でサラリーマンとしてキャリアのはしごを登っている。果たして誰のためか。少し怖くなりました。
自由に働きたいのに、ポジションが上がるにつれて責任も増え、段々とここから抜けられなくなる。そう感じました。
勉強のためにアメリカに渡ったのだから、ある程度落ち着いたのであれば、次のチャレンジに取り掛かるべきだと感じました。
事務所を変えたら、仕事の内容も少しは変わりるでしょうが、アメリカに渡るという1回目のジャンプで大きく成功できたので、次も大冒険をしたい気分でした。次は西海岸?それとも 南米に行く?
実はイタリアに住んでいた時に、日本人の観光客(特に写真を撮ることにばかり気を取られている団体旅行)のイメージはあまり良くありませんでした。
でもニューヨークで日本の文化と出会うことができました。渡米した最初の頃。私はメトロポリタン美術館の近所の狭いワンルームで暮らしていました。手紙を書くためのテーブルすらなかったので、36ドルでMETの年間パスを購入し、時間があれば、カフェやそれぞれの部屋で本を読んだり、建築のコンペを考えたりしていました。
シャガールの部屋から家族への手紙を毎週のように書きました。(1996年ですのでまだメールが無かった)。夕方や来場者がまばらな時には、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの小書斎の床に座って、瞑想をしたりもしました。
でも、最も好きなセクションは日本館でした。生まれて初めて掛け軸を見た時の大きな衝撃は今でも忘れられません。すぐに筆や墨を買って、図面の裏に下手くそな習 字をしてみました。ある時、紙が無かったので、白い冷蔵庫の壁面をランダムな字で完全に埋めつくしてしまったこともありました。
屏風も、鎧も大好きでしたが、METの展示の中で、私の人生に最も大きな影響を与えたもの、それは焼き物でした。
「日本のやきものは人間と自然の共同作品です。炎の動きを想像して匠な陶芸家は茶碗の表面の向きを調整しますが、最終的には火に任せるしかない。」
といった内容がショーケースに書かれていました。
装飾で形をごまかす文化から来ている私には別の次元のように感じました。
尺八のレッスンを受けたり、日本人の友達ができたり、和食を食べたり、黒澤明の「乱」や「七人の侍」を見たり、日本の文化に関してとても気になりました。建築に関しても、学生時代に皆が憧れていた安藤忠雄や伊東豊雄の作品を見たかった。社長に正直に話をして、3か月後に仕事を辞めさせてもらい、1998年6月に来日を果たしました。
先ず仕事を見つけて、就労ビザを手に入れないと長期滞在ができないので、すぐに就職活動を始めました。西新宿の小さいシェアハウスで6畳間を借りて、半分観光、半分ネットワーキングをして過ごしました。1998年はアジュアンタイガーズの国の経済破綻問題で日本の大手銀行5社が倒産した年でもあり、就職活動は思うように進みませんでした。日本語が話せなかったし、日本人の建前を完全に読み間違えて、丁寧に断られても「きっと、すぐ呼んでくれる」と何度も勘違いしていました。
3か月の観光ビザの期限が近付いた時には、本当にあせりました。部屋をすっかり片付けて、玄関に荷物を置き、大家さんに鍵を返して、そして香港に4日間行ってきました。
観光客として2回目の入国はできないかもと緊張をしながら東京に戻りました。今度こそ、冒険の旅を断念して、仕事が見つけられる故郷トリノに帰ると決断しました。
この時の経緯の詳細は面白いのですが、今回はかいつまんでお話しします。来日してすぐにお会いするはずだった、大学の先生、丸山欣也氏の事務所を、そのころになってやっと訪ねる機会を得、ランチをご一緒しました。その時に、神戸の設計事務所をご紹介いただいたのです。
またとないせっかくのチャンスでしたから、再び荷物を玄関に置き、大家に鍵を預けて、神戸のいるか設計集団の面接を受けました。
自慢の履歴書や作品集はほとんど見てもらうことができず、あきらめて帰ろうと思いましたが、ふいに「貴方の席はそっちでいいですか」と言われた時は甘酸っぱいような喜びに包まれましたが、やはり、私の本質的な部分を見ていただいたからとか、実力を認めてもらったからということではなく、単に丸山先生がご紹介くださったという力が働いたのだということを深く理解しました。
いるか設計集団で、再びゼロから始めました。日本語が分からない。Macのパソコンのフロッピーディスクをどこに入れるか分からない。でも模型を作ることができましたし、スケッチや図面を書くことででチームの一員として認めてもらうことができ、その時点で、私はしばらくイタリアには戻らないと感じたのです。
続く・・・